夢/幻/現:No.LOST
著者:月夜見幾望


 ───夜十時。
 面会時間はとうに終わり、消灯時間も過ぎている病院は異常なほどの静けさに包まれていた。明かりが点いている箇所といえば、各フロアのナースステーションと、病院の中のわずかなスペースに設けられた売店くらいだ。そこ以外に人の気配は感じられない。
 真っ暗な廊下の中に浮かび上がる、非常用ランプと緊急出口。それらは廊下を進む道標でありながら、同時に距離感をも狂わせる。
 暗闇の底に沈んだ精神科病棟。その204号室。
 闇を纏った彼女の横顔を青白い月明かりが照らしている。その顔は、まるで生きる意味を失った死者の様相を呈していたが、微かに“希望”を繋ぎ止めていた。
 ───“奴ら”を叩き潰す。
 桔梗お兄ちゃんは、何の迷いもなく、そう言った。これまで誰にも届かなかった願いを、初めて受け止めてくれた。
 “奴ら”に対する宣戦布告。しかし、桔梗お兄ちゃんの場合、すでに自分が勝つことを信じて疑っていない表情だった。
 “奴ら”には絶対に負けない。必ず瑠璃を救い出してみせる、と。
 あの言葉の裏に込められた意志は限りなく強く、じんわりと私の心の中に広がっていった。彼の頼もしさが支えになってくれたから、私はいま正気を保っていられる。胸の内側に灯された、小さな、小さな温かい光。それは、かつて真衣が私に向けてくれた真夏の太陽のような笑顔と重なった。
 当たり前のことだけど、真衣はもうこの世にいない。どんなに願おうが、妹が生き返ることは決してない。それは分かってる……いや、分かってるつもりだった。でも、無意識に心の奥底で、『もしかしたら……』という願望が根を張っていたのかもしれない。だから、未だ“奴ら”を振り切れずにいる。

「───それじゃあ、駄目だ」

 いくら、桔梗お兄ちゃんが力を尽くしても、私にその気持ちが少しでも存在し続ける限り、“奴ら”はまた私の前に現れるに違いない。
 そう、結局最後は『私自身が変われるかどうか』なのだ。真衣への未練を断ち切って、前を向けるかどうか、に全ては懸かっている。

「変われる、かなあ……」

 真衣はもういない。父さんもいない。
 死者蘇生を企む“奴ら”と、私だけが存在する世界。数日前まではそうだった。
 でも、今は───。
 瞳の裏に、決意を秘めた従兄と、彼の仲間たちの姿が浮かび上がる。閉塞した世界に突如入り込んできた五人の闖入者。彼らは、まるで大昔のアニメに登場する戦隊(ヒーロー)のように、私と“奴ら”の間に立ち塞がる。それは滑稽でもあるけど、その存在感が頼もしくて、嬉しくて……彼らと一緒にいれば、もしかしたら今の自分から、前を向いて生きようとする自分に変われるかもしれない。

「そんな奴らのことなんか放っておけ」

 突然、病室に低い声が響く。

「なっ!?」

 声のした方を凝視すると、暗闇の向こうから白衣を纏った八尾邦人が姿を現した。月明かりに浮かぶ顔には、いつも以上に不気味な笑みが貼り付いている。まるで、心の中を見透かされているようで……すごく怖かった。

「な、何の用……?」

 震える声で問う。すると、八尾邦人は大仰に両手を広げて、

「はっ、記憶喪失にでもなったか。これまで幾度となく我々の研究を目の当たりにしてきながら、今更『何の用……?』とは。それとも、最近、この辺りをうろつくようになった目障りな子供たちに妙なことを吹き込まれて、決意が揺らいだか。……ふんっ、だがまあ、そんなことはいい。今日は君にとって、これ以上ないグッドニュースを知らせに来たのだよ」
「グッドニュース……?」
「そうとも」

 八尾邦人は喜色満面な笑顔で、驚くべきことを口にした。

「ついに我々の究極の目的───死者蘇生の研究が完成した!!」

 体の中を電流が駆け抜けるかのような衝撃が走る。こいつ、今、何て……。

「ふむ。あまりの驚愕に声も出ないか。だがね、一番驚いているのは、他でもない我々自身なのだよ。これまで、幾通りもの実験を積み重ねてきた。考え得る計算式や化学反応はすべて試し、その度に祈るように結果を見守った。しかし、実験が成功することはなく、研究仲間たちのモチベーションは低下。上層部も歯痒い思いをしながらも、どうすることもできず、ただいたずらに時だけが過ぎていった。研究を断念し、我々のもとから去って行った仲間も一人や二人ではない。終わりの見えぬ戦い。希望のない戦い。それはまさに、君の置かれた境遇と、中らずと雖も遠からず、といった所に違いない。我々と君は似た者同士だというわけだ」

 だが、と八尾邦人は続けた。

「我々はその暗闇に打ち勝った。何度心が折れそうになっても、その度に自身を奮い立たせ、ついに長き迷路の出口に辿り着いたのだよ。未だかつて誰も足を踏み入れたことのない、『死者の眠る場所』へと、な。そこには無論、君の妹も、幸助───お父さんもいる。さあ、我々と一緒に来たまえ。彼らをこの世に連れ戻そうじゃないか」

 後半になるに連れて熱を帯びていく八尾邦人の言葉は、次第に私の心を浸食していく。
 真衣を生き返らせることができる……? 本当にそれが可能なら、かつての幸せな日々、姉妹仲良く暮らしていたあの頃を取り戻せるかもしれない。そして、この狂った現実も……。

「気付いたかね? 君と我々のゴールは同じ場所だったというわけだ。つまり、我々が君と接触するのは、これが最後になる。後は君が望むように生きればいい。さあ、すべてを終わらせに行こうではないか」
「………………」

 差し出された手を取って、瑠璃は、ふらり、と病室を出て行った。






 同時刻、青磁は病院からほど近いコンビニで、数学関係の雑誌を立ち読みしていた。
 遅くまで雑誌を立ち読みするのは元からの趣味であったが、いまの目的はそれではなかった。第一、立ち読みするだけなら、家の近所のコンビニでもできる。それを敢えて、病院の近くに位置するこの場所を選んだのは、桔梗から指示があったからだ。
 ───瑠璃が夜遅くに病院を抜け出さないか見張っていてほしい、と。
 青磁は、先日桔梗と交わした内容を思い出す。

 『瑠璃が夜に病院を抜け出す時、その傍らには間違いなく“奴ら”が一緒にいるに違いない。そして、彼女が向かう先は、恐らく“奴ら”の研究施設。もし彼女を見かけたら、すぐ僕に連絡してほしい』
 『俺と茜はどうするんだよ?』
 『彼女と“奴ら”に気付かれないように、こっそり跡をつけてくれ。一応、僕一人で“奴ら”と対決するつもりだけど、万が一ってこともあるからさ』
 『───分かった。……頑張れよ』

 あいつ……あんな顔することあるんだな……。
 追試常連者で、至って凡人。部活の後輩にも振り回されがちな、頼りない生徒。自分が部長を継ぐのに、深い躊躇いを見せていた、意志の弱い少年。
 それが桔梗のすべてだと思っていた。
 しかし、あの時のあいつは、まるで心の奥底で燻っていた“もう一人の自分”に火が点いたような……別人の雰囲気を纏っていた。もしかしたら、桔梗は……。

「……っと、そんなこと考えてる場合じゃねえな。しっかり見張らないと」

 暇つぶしに読んでいた雑誌から顔を上げると、

「あの子は……」

 病院の夜間専用出入り口から、病衣姿の女の子が姿を現した。腰まで届く、長いストレートな黒髪。どこか幼さを残す、くっきりとした顔立ち。
 彼女は、夢遊病者のような不確かな足取りで、病院の敷地を後にし、真っ暗な山のほうへ歩いて行く。それを見た青磁は急いでコンビニを飛び出すと、桔梗と茜に連絡を入れた。

「まさか本当に、桔梗の言った通りになるとはな……」

 あいつには探偵の才能があるんじゃないか、と時々本気で思ったりする。それが、桔梗本来の人格なのか、それともあいつの中に眠っていた別人格───ここでは敢えて、別人格と言ったほうが分かりやすいだろう───なのか、は分からねえけど。

「ま、普段から勘だけは鋭い奴だからな」
「妄想癖が強いだけよ、桔梗は」
「そうかもな。……って、茜!? 急に横から声かけるなよ! 吃驚するだろ!」
「何驚いてんの? 男のくせに情けないわね」
「その台詞は俺だけじゃなくて、桔梗にも言ってやれ」
「しっ、静かに! 今はそんなこと議論している場合じゃないでしょ。瑠璃ちゃんを見失わないように、しっかり尾行しないと」
「ああ、分かってるよ」

 彼女は、狭い山間の道を、ふらり、ふらり、と上って行く。真っ暗な闇の中に浮かび上がる、白い病衣を纏った後ろ姿は、まるであの世に逝く亡霊みたいだ。風が吹く度に、長い黒髪が、さらり、と音も無く揺れる。
 ゆっくりと、ゆっくりと、生者を死地に誘うように、彼女は歩く。
 気付くと、茜が服の袖を、ぎゅっと握りしめていた。体は小刻みに震え、前方を歩く彼女を、怯えた目で見つめている。

「……なんだ、茜? もしかして怖いのか?」
「じょ、冗談言わないでよ! この私が怖がるわけが……」

 その時、一際大きな風が吹いた。それに伴って、周りに聳える大木が、ざわざわと不気味な旋律を一斉に響かせる。

「…………っ!」

 茜は半分涙目で、俺にしがみついてきた。
 普段、血みどろのホラー小説や推理小説を書いているのに、このザマかよ。意味分かんねえ……。
 でも、まあ、こいつ…素直じゃねえからな。インドア派のように見えて、実はデパートの安売りセール時に朝一で並んじまうくらいショッピング好きだし、ツンとしているようで、内面ではきちんと相手のことを思いやれる奴なんだ。ホラーやお化けが苦手という、女の子らしい一面があったって、おかしくも何ともない。

「しゃーねえな。ほら」

 俺は、茜の手を力強く握りしめる。

「な、な、なにするのよ!? い、今すぐ手を離しなさい!」
「無理すんなって。別にお前をからかったりしないからよ。ったく、早くこれで涙拭け」
「だ、誰が泣いているって!?」

 そう否定しつつも、相変わらず涙目なので説得力は皆無だ。それでも俺の差し出したハンカチをひったくるようにして奪うと、ぷいっと横を向いて、

「…………ありがとう」

 と、呟くような声で言った。

 それから山の中を一時間くらい歩いただろうか、急に視界が開け、目の前に古びた洋館が現れた。……いや、洋館と称するには、いささか無理があるかもしれない。
 正面の門扉は錆びつき、ギィ…ギィ…と不気味に揺れている。館を取り囲む赤茶色の煉瓦塀は、そのほとんどが崩れ、瓦礫の山を形成している。肝心の館のほうは、これまた完全に廃墟の様相を呈していた。恐らく元は立派な擬洋風建築の建物だっただろうに、いまは窓が割れ、バルコニーの一部が欠落している。
 おもちゃのブロックを適当に積み重ね、途中で作るのを止めたら、こんな感じになるだろうか。月をバックに聳える不完全な建物は、さながらゴーストマンションのような、禍々しい妖気に包まれていた。
 その入り口に向かって、彼女は荒れ放題の庭をゆっくり歩いて行く。そして、館の中に吸い込まれるように消えていった……。

「ほ、本当にこの中で“奴ら”の研究が行われているの……?」

 茜が、限界寸前のような顔で疑問を口にする。入りたくない、という思いが言外に、はっきりと読み取れる。

「さあな。でも、行かない訳にはいかないだろう。そう心配すんなって。何かあったら、俺が守ってやるから」
「そ、そうじゃなくて……」
「? 何だ?」

 すると、茜は震える声で訥々と語り始めた。

「……ちょっと前に古い文献で読んだことがあるの。この館で起こった、数々の不可思議な現象を……」
 その文献によれば、

 『招かれざる者は、館に喰われる』
 『嵐の夜には、戦時中に死んだ女の霊が徘徊する』
 『館内に十三人の人間がいると、招き人形が笑いだす』
 『招き人形が血に濡れるとき、人が死ぬ』

 など、真偽は定かではないが、『招き館』には多くの怪談が残されているらしい。

「24人の児童と教師が、一夜の内に忽然と姿を消したという実話もあるし、もしかしたら私たちも……」
「───っは、くだらねえ」
「え?」
「くだらねえって言ったんだ。茜がどう思っているかは知らねえけど、少なくとも俺は幽霊や怪談なんて信じちゃいない。そりゃ多少は実話に基づいているんだろうが、大概は根拠もない要らぬ尾ひれがくっついただけの迷信さ。お前自身もこの前言ってたじゃねえか。『ミステリーな出来事を集めた掲示板とか見かけるけど、あれらは信憑性に欠ける』って。つまりは、そういうことさ。何らかの理由で、人が消えたり、死んだりしたのを、無理やり霊や人形の仕業に結び付けようとしただけ。真に受けるだけ無駄だぜ」

 努めて落ち着いた声で言う。こっちまで動揺すると、相手は余計にパニクるからな。ま、実際、怪談なんて信じちゃいねえけど。

「気は落ち着いたか?」
「う、うん。少しは……」
「なら、そろそろ俺たちも突撃するか。だいぶ話し込んじまったし、急がねえと」

 意を決して、俺たちも『招き館』へと足を踏み入れた───。






 八尾邦人と共に、灰色の絨毯の上を、いつもの階段部屋へと歩く。
 もうすぐ、真衣に会えるかもしれない───その思いが、知らず知らずの内に、歩くスピードを速めていた。
 八尾邦人が上機嫌で声をかける。

「そんなに慌てなくとも、研究は逃げたりしない。逸る気持ちは分かるが、少し落ち着きたまえ。まあ、君がずっと秘めてきた願望がようやく叶うのだから、無理もないが」

 いつもなら、八尾邦人の言葉に激しく突っかかるのだが、今はそんな余裕などなかった。
 一秒でも早く妹に会いたい。会って、そしてあの時のことをきちんと謝りたい。思考はそれのみに支配され、もはや傍らを歩く八尾邦人さえ、目に映らない。
 階段部屋に入り、幅の狭い階段を転げ落ちるような勢いで駆け下りる。目の前には鋼鉄製のドア。このドアの向こうに真衣が───。

「さあ、開けたまえ。君の望むものがその先にある」

 真衣───!!
 私は勢いよくドアを開けた。
 “奴ら”の研究施設が目に飛び込んでくる……はずだった。

「───え?」
「き、貴様は!?」

 白衣を着た人間たちが忙しなく行き交う研究施設。多くの培養装置や、最新技術が搭載された機械に囲まれた部屋の中心点。
 そこには───

「───待ってたよ、瑠璃」

 一人の少年が立ちはだかっていた。圧倒的な存在感を纏い、燃えるような決意をその瞳に宿して……。






 僕と瑠璃は、真正面から対峙するような形となった。
 もちろん僕には見えないけど、瑠璃のすぐそばに“奴ら”の仲間がいるはずだ。
 さて、ここからは、漫才界隈もびっくりするほど滑稽な茶番を演じることになる。傍から見れば、僕が見えない相手に向かって独り言を呟いているように映るだろう。しかし、それでいいんだ。あの時、病室で出会ったときの瑠璃も、“何もない壁”に向けて、怒りを撒き散らしていたのだから。
 瑠璃は、僕と、自身の隣の交互に視線を走らせている。
 “奴ら”がいるのはそこか。僕は“そいつ”を睨みつけて、言葉を放った。

「お前らの研究はこれでおしまいだ。瑠璃は返してもらう」
「くっ、貴様一体どうやってこの館に侵入した!? この館の鍵は我々しか所有していないはずだ!」
「そ、そうだよ、桔梗お兄ちゃん。“奴ら”の仲間でもない限り、この館の鍵は……」
「鍵? なんのことだ? この館には“元々鍵なんかどこにもかかっちゃいない”。荒れ果て、風雨に晒されるだけの廃墟───それが、この館の本当の姿だ。お前たちは今までうまく瑠璃を欺いてきたんだろうが、そんな仮初の幻なんてこの僕が全部ぶっ壊してやる」
「貴様、言わせておけば……っ! おいっ、誰かこの小僧をつまみ出せ! 研究の邪魔だ!」
「はっ、やれるもんならやってみな。所詮、幻であるお前らには、現実に存在する僕に触れることさえできない」
「幻、なの……?」

 瑠璃の瞳に、僅かながら疑いの色が宿る。

「こんな小僧の言うことなんて信用するな!」

 そんな叫びなんか無視して、僕は畳みかけるように続ける。

「それから、お前らは死者蘇生なんて大それた研究が本当に成功したと思ってるのか?」
「どういう…ことだ?」

 僕は、この部屋の中で探し当てた“とあるもの”を掲げて見せる。

「それは……私の父さんが残した、死者蘇生に関するレポート……?」
「貴様! それは我々の研究に欠かせない大事な資料だぞ! 勝手に持ち出してどうするつもりだ!?」
「こういうことさ」

 僕は力を込めて、それを、びりっ、と半分に引き裂いた。

「なっ!?」

 無数の紙片が宙をゆっくりと落下していく。まるで秋空に舞う枯葉のように。まるで自らの役目を終えたかのように。

「これは研究資料でも何でもない。ただの“紙切れ”だ。お前らが瑠璃にそう“思い込ませた”だけの、実際は何の意味も持たない代物。いくら時間を費やそうが、無意味に無意味を積み重ねても、なにも生み出せないことくらい分かるよな?」
「くっ……」



 ───不思議な感じだった。
 桔梗お兄ちゃんが言葉を重ねるたびに、閉塞した世界に亀裂が生じていく。出口のないまやかしの壁が“内側”からの衝撃に耐えきれず、身悶えする。
 今の狂った現実を構成していた要素を、末端から霧消させていくような───強大な破壊力を秘めた旋律。それに抵抗するように、八尾邦人はさらに声を荒げる。

「そこまで言うのなら、証拠を見せたまえ! 我々の研究が幻だという確かな証拠を! ふん、どうせありっこないだろうがな!」

 すると、桔梗お兄ちゃんは薄く笑んだ。まるで、その言葉を待っていたかのように。

「お前らの研究……いや、お前ら自身も含めて、すべてが幻だという証拠ならここにある」

 そう言って、桔梗お兄ちゃんは原稿用紙の束を取り出した。どうやら桔梗お兄ちゃん自身が執筆した作品みたいだが、肝心のタイトルは書かれていない。その名も無き作品を、私に寄越す。

「それは僕が夢で見た、瑠璃の物語だ。君の姿をずっと追い続け、その軌跡を物語として書き綴っていた。その行為に意味なんてあるのかどうか分からないまま。……でも、瑠璃と実際に出会って、ようやくその答えを見つけた。僕が文学部に入部した意味。そして、この作品を書き続けた意味を。───この中には、嘘偽りのない真実だけが記されている。さあ、読んでみてくれ」
「う、うん」

 渡された原稿に目を通していく。
 ただ徒に繰り返される誰かの物語。その主人公の女の子は、いつも孤独で苦しそうで、見えない何かに必死に抵抗しているようだった。もがいて、あがいて、なんとか振り切ろうとするも、結局、最後は振り出しに戻されてしまう。
 見えない壁に囲まれた閉塞した世界。彼女と似たような境遇を私は知っている……いや、私自身が体験している。

「これが、私の物語……」

 それは途中で読むのを止めたくなるような希望も見出せない物語。普通の日常とはかけ離れた、狂った現実。毎日が神経を消耗する日々。しかし、そこには“彼女”以外の登場人物は一切出てきていない。
 『招き館』も、八尾邦人も、死者蘇生の研究も、“彼女”が叫ぶ言葉には出てくるが、現実に存在してはいなかった。
 ふと、傍らの八尾邦人を見ると、この原稿をまるで核爆弾でも見るかのように、忌々し気な表情で睨みつけていた。
 ───もしかして、本当に“奴ら”は……。
 視線を原稿に戻すと、桔梗お兄ちゃんは、さらに先を読むように促した。パラパラとページをめくると、そこには……、

「え?」

 “彼女”以外の登場人物が一気に増えていた。

 ちょっと頼りない所がある、赤朽葉桔梗。
 計算にかけて右に出る者はいない、浅緋青磁。
 知的な雰囲気を持つ記憶マスター、竜胆茜。
 妙な趣味を持ちながらも、部員のことをしっかりと考える、花浅葱千草。
 小柄で投擲攻撃を得意とする帰国子女、月草紫苑。
 おしとやかで几帳面な大事な後輩、東雲桜。
 常に元気一杯、好奇心旺盛な明るい少女、紺青胡桃。

 その七人に囲まれ、“彼女”はとても楽しそうに───笑っていた。
 それは真夏の太陽のような笑顔で、その横顔に暗い影は微塵も感じられない。ひたすら八人でバカ騒ぎして、カラオケに行って、合宿をして、肝試しをして、文化祭を楽しんで、クリスマス会に参加して……。
 ───私が心の底から望んでいた、普通の日常がそこにはあった。

「うっ……」

 涙が後から後からこぼれてくる。それが、なぜなのか、は自分でも分からない。
 でも、

「こんな楽しい生活ができたらいいなあ……」

 ぽつり、と呟く。

「できるさ。これは瑠璃の物語なんだから。さあ、そんな“奴ら”なんか振り切って、僕たちと一緒に過ごそう」
「だめ……まだ信じられ、ない……。だって……ひっ…く……桔梗、お兄ちゃんも……幻かも……ひっ…く……しれない、から」

 胸が詰まって、上手く言葉にならない。
 下を向いて、涙を拭いていると、不意に体を抱きしめられた。

「あ……」

 ドクン、ドクン、……と、桔梗お兄ちゃんの鼓動がはっきりと伝わってくる。







「───僕は、存在しているよ」







 耳元のすぐそばから聞こえてくる、柔らかな声。力強い手の感触。体を包んでくれるような温かな鼓動。
 そのすべてが、“ここにいる”という確かな安心感をもたらしてくれる。

「くっ……、そんな小僧に何ができる!? いいから、我々と一緒に来るのだ!!」

 これまで散々私の中に侵入してきた八尾邦人の言葉も、もう私には届かない。

「断る。私は、これから笑って生きることに決めたから」
「君の妹は、どうする!? 我々と来れば、蘇らせることも……」

 そんなことは叶いっこない。真衣は死んだ。二度と生き返ることはないんだ。
 何より、“彼”のすべてが、私に語りかけてくる。
 ───否定しろ、と。

「そんな原稿に書かれた物語で満足できるのか!? 我々は……」
「うるさい。お前らにはもう惑わされない。死者蘇生の研究も、お前ら自身も、全部全部私が作り出した……」







「───幻覚なんだっ!!」







 薄らと目を開けると、そこには“奴ら”も、そして彼らの研究施設も、跡形も無く消えていた───。



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